2012年08月03日

ポーランドが親日な理由

http://create21.iza.ne.jp/blog/entry/2655971/

1917年、ロシア帝国が革命で崩壊すると、各地で激しい内戦が繰り広げられた。その混乱に乗じたポーランドは1919年11月に念願の独立を勝ち取ったが、両国はそのまま交戦状態に突入していく。

このときシベリアには、祖国に帰りたくても帰れない10数万人ものポーランド人が取り残されていた。
せめて親を失った孤児だけでも、シベリアから脱出させなければならなかった。
救出委員会ではアメリカのポーランド系移民に保護を求める為、欧米諸国に孤児たちの輸送と援助を要請したのである。
しかし混乱と緊張が続く国際情勢の中、各国の反応は冷淡であった。

万策がつき途方に暮れるアンナに委員会の一人が声をかけた。
「日本はどうだろう」それを聞いて別の一人も声を上げた。
「そういえば、ソ連赤軍に破れたチューマ司令官の義勇軍の為に船を出し、新しく生まれ変わったポーランドへ帰れるようにしてくれたのも日本だった」
アンナは深くうなづいた。アンナは直ちに日本に向かい、外務省にシベリア孤児の惨状を訴えた。1920年6月のことである。

外務省は直ちに日本赤十字社に孤児の救出を依頼。
それはアンナが外務省を訪れてからわずか17日後という驚くべき即断であった。独立して間もないポーランドはまだ混乱の最中にあり、日本との正式な外交関係さえ結ばれていない。そんな状況で、手間も費用も人手もかかる救済事業がこんな短期間で実行に移されたことは、当時のどんな外交事例と比べても極めて異例なことだった。

そして7月下旬、56人の孤児を乗せた第一陣がウラジオストックから敦賀経由で東京に着き、渋谷の慈全団体の宿舎に収容された。
これを手始めに、翌1921年7月までの1年間で5回にわたり、1歳から16歳までの375人の孤児が同じように日本に運ばれたのである。

シベリア孤児達が日本にやってきた経緯を知った日本国民は、物心両面で温かい関心を寄せた。寄付金はもちろんのこと、玩具や人形、お菓子など、子供達が喜びそうな品々を送る人が後を絶たず、歯科治療や理髪のボランティア、音楽団の慰問演奏、慰安会への招待など、申し出る者が相次いだ。

子供達が回復すると、いよいよ帰国事業が始まった。
1920年9月から翌7月にかけて、横浜港から8回に分けてアメリカ経由でポーランドに向かった。

シベリアにはなおも救済を待つ孤児が2000名以上取り残されていた。
1922年3月、日本政府は、再度訪日したアンナの依頼に応じて2度目の救済事業を決定する。この孤児たちも適切な治療や休養で体力を回復し、ほどなく帰国の途についた。横浜港から出航する際も神戸港から出航する際も孤児たちには道中の楽しみが少しでも増えるようにとバナナやお菓子が配られた。しかし孤児たちはみな、親身になって世話をしてくれた日本の「お母さん」たちとの別れを惜しみ、中には船に乗るのを嫌がって泣き出す子もいた。

元孤児のハリー・ノベッカは日本を去る時のことをこう回想している。
「誰もがこのまま日本にいることを望んでました。太陽が綺麗で、美しい夏があり、海があり、花が咲いている日本に・・・・」
なだめられてようやく船のデッキに並んだ孤児たちは、日本で覚えた片言の「アリガトウ」を叫び続け、その声はいつまでも鳴りやむことはなかった。


1995年に起きた阪神淡路大震災の直後、ポーランド科学アカデミーの物理学者、スタニスワフ・フィリペック博士は「日本・ポーランド親善委員会」を設立し、震災の年の7月と8月、翌96年の7月と8月の2度にわたり、合わせて60名の被災児たちをポーランドに招待している。

ユゼフ・ヤクプケヴィッチは心のこもった礼状を送っている。
「日本人がしてくれた恩をポーランド人はいつまでも忘れない国民であることを日本の人達に知って頂きたい。ポーランド国民は日本に対して、最も深い尊敬、最も温かい友情と愛情を持っていることをお伝えしたいと思います」と語っています。

四條たか子氏著 「世界が愛した日本」より
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2012年03月23日

知らぬは日本人ばかりなり

日露戦争勝利で救われた国々

◆ポーランド

東欧の国、ポーランド。

この国には、苦い苦い亡国の歴史がある。
1772年、ポーランドはプロシア、オーストリア、ロシアによって分割され、本土の四分の一を喪失した。1893年の第二回分割では旧領の三分の一を残すのみとなった。1896年の第三回分割で国土のすべてを失ってしまった。
ポーランド人でカラチ大学やセイロン大学の教授を歴任したジョージ・J・レルスキは論文の中で、
「ポーランド人ほど日露戦争の勃発を喜んだ国民は、他にあるまい。」と書いた。

日本の勝利のうちに日露戦争が終結して13年後の1918年11月、ポーランドは第一次世界大戦の停戦協定により独立を認められた。 
当時ポーランド人がいかに日本の勝利を喜んだかについては、駐オーストリア公使牧野伸顕(元勲大久保利通の子息)が、「ロシア戦とポーランドの有頂天」と題して、次のように書いた。「・・・ポーランドの伯爵で、私に遊びに来ないかということで遊びにいった。ロシア国境に近いエズボールというところで、在郷軍人みたいな人が 迎えに来てくれて、えらい厳かな歓迎振りであった。
宿の主人が、「村長が閣下(牧野)にお目にかかりたいと言っている」、というので会ったが、彼らが言うには、同胞を代表して天皇陛下に御礼を言いにきた、というのだ。
ロシアが日露戦争に負けた結果、今までのポーランド人に対する束縛が解かれた。
これまでは学校でもポーランド語を教えさせず、土地所有権も与えず、婚姻の自由さえなかったが、日本の連戦連勝のおかげでその束縛がひとつひとつ解かれ、今では非常に自由の民となった。これは日本皇帝陛下のお陰で、忘れることができない」

◆ハンガリー

1956年の「ハンガリー動乱」(同年10月23日に始まった、首都ブダペストを中心に沸き起こった学生・労働者による反政府反ソ暴動)のおりに、ハンガリーからアメリカへ亡命したデュナイ・イシュトワン氏が、月刊誌「文藝春秋」1963年2月号に「日本への恋文」という文を寄稿した。
それによれば、イシュトワン氏の自宅近所に住む農民が、口癖のように、
「東方には我々の兄なる国、日本がある。日本は小なりといえども、大国ロシアを打ち破った素晴らしい国だ。この国を、この国の人々を信じ給え。必ず報われるだろう。」
と言っていたという。
そしてその農民が「日本に行ったら日本人に渡してほしい。」と、イシュトワン氏に託したのが以下の手紙である。
「日出ずる国、大日本の紳士淑女へ。私はあなた方の弟、ハンガリー人の一農夫であります。
長い長い間、私は兄なる国、日本に憧れていました。日本に関する本は全部読みました。
日本について知っている人がいると聞けば、どんなに遠くへも出かけていって熱心に耳を傾けました。
いまだ見ぬ憧れの日本よ、私の胸に溢れる貧しい言葉をどうかお許しください。
おそらく私は一生あなたにお目にかかることはないでしょう。
しかし、私は心眼を以ってあなたの孤高なる姿を見ることができます。
それは、さながら水晶の器に純粋のまま保存され、自然のみにあるからであります。
いかなる異民族もあなたの神聖な領土を犯すことは不可能でした。

それに引き換え我々は、西方異種族の中に唯一人、一日として安んじたことはありませんでした。
第二次世界大戦で我々は二十万の人命を失い、十五万人が西欧へ亡命し、幾千人がシベリアへ連れ去られたのです。共産統治下では一万人を越える人々が絞首台へ追いやられました。我々は滅びつつあります。
雨にも風にも耐えながら私は待っています。
血を分けた同胞の日本が孤独な西欧の弟を思い出して下さる日を、
我々の苦しみを必ず理解して下さる日を・・・・長くとも私は待っております。」

◆スウェーデン

北欧のスウェーデンは、隣人ロシアに対し歴史的に絶えざる恐怖と怨念を持っていた。
その影響で、日露戦争が勃発するや、スウェーデン人は心から日本を支持していた。

明治三十七(1904)年二月五日、日露戦争開戦にともない日露間の国交が断絶し、駐ペテルブルグ日本公使館は閉鎖、館員全員が国外退去となった。
栗野慎一郎公使以下館員がスウェーデンの首都ストックホルムに到着すると、駅のホームには一行を歓迎する民衆が多数集まっていた。
このとき、スウェーデン国王オスカル二世も離宮に行くために駅に来ていた。

国王は栗野公使を招き、
「自分は、このたびのことについては何も言わぬ。言わぬが、自分の心はわかっているであろう。」
と語ったという。

◆フィンランド

1809年以来ロシアの支配下にあったフィンランドは、1917年のロシア革命により帝政ロシアが崩壊した好機を利用して、念願の独立を達成することになった。
とはいえ、帝政から代わった共産国家ソ連は前にも増して獰猛、貪欲であり、フィンランドを蹂躙し再び呑み込もうとした。フィンランドの国民は、有能な指導者のもと、独立を守るための闘いに邁進した。
 
ソ連の侵略からフィンランドの独立を守り抜いた英雄として、後年「白い将軍」と呼ばれたフィンランドの武人カール・マンネルハイムは、若かりし頃の1905年三月、当時帝政ロシア陸軍の将校を務めており、第52騎兵連隊付の騎兵中佐として、日露戦争下の満州にいた。
彼の所属する連隊は、史上名高い奉天大会戦において、乃木希典陸軍大将率いるわが第三軍との激烈な戦闘の末敗れた。
この戦いにより、日本がそうであったように、小国フィンランドといえども国民が一致団結すれば大国ロシア(ソ連)にも勝てる、との教訓を得ることになったのである。

カール・グスタフ・エミール・マンネルハイム(1867〜1951)は帝政ロシア陸軍中将、フィンランド独立後フィンランド軍騎兵大将、同陸軍元帥、同軍最高司令官、後に国家元帥、大統領。

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マレーシアの教科書も、日本軍によるマレー半島攻略から始まります。
世界中の教科書で「日本によって救われた」とする記述がいかに多い事か。
それを知らないのは我々日本人だけ。
これを広く知らせる事が出来れば、日本の凄さに気付く人が増えるでしょう。
そして、過去の日本の歴史を知りたがる人が増えるでしょう。
日本の異常さに気付く人は歴史好きの人が中心かと最近感じています。
日本の歴史に関わる情報を集めていくと、「自虐史観」に行き当たる。
そこから真の日本の歴史に辿り着き、現在の反日勢力の思惑を知る。
ただ、歴史に興味が無い人は、現在の日本の状況を理解する事が難しい。

そうした人へは「日本ってこんなに多くの国から感謝されてんだよ!」と伝え、少しでも過去の歴史に興味を持ってくれる事が大事なポイントになると思います。それが無いと、「韓流キライ」「在日出ていけ」だけになってしまい、いつしか周囲が嫌悪感を抱き、付いて来なくなる懸念を感じ始めています。

夢のある話に人は付いて来ます。
一人でも多くの方々に、日本の素晴らしい歴史を拡散し、一人でも多くの方々に「この日本を守りたい」と思ってもらえれば、日本の敵の姿が理解でき、心強い同志になってくれると考えます。
自分の本当の姿(感謝される日本)を知ってから、己の愛国心に気付き、敵の姿(反日勢力)を認識してから団結力は高まりますので、色々情報が山のようにあって大変ですが、こうした情報も同時に拡散していきたいと思います。
(参考文献)
平間洋一「日露戦争が変えた世界史」芙蓉書房出版
植村英一「グスタフ・マンネルハイム〜フィンランドの白い将軍」荒地出版社
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・サンパス(インドネシア元復員軍人省長官)
特にインドネシアが感謝することは、戦争が終わってから日本軍人約1,000人が帰国せず、インドネシア国軍と共にオランダと戦い、独立に貢献してくれたことである。
日本の戦死者は国軍墓地に祀り、功績を讃えて殊勲章を贈っているが、それだけですむものではない。

・モハメッド・ナチール元首相 (インドネシア)
「アジアの希望は植民地体制の粉砕でした。
 大東亜戦争は私たちアジア人の戦争を日本が代表して敢行したものです。」
「大東亜戦争というものは本来なら私達インドネシア人が、独立のために戦うべき戦争だったと思います。もしあの時、私たちに軍事力があったなら、私たちが植民地主義者と戦ったでしょう。大東亜戦争はそういう戦いだったんです。」

・インドネシア ブン・トモ 元情報相
「我々アジア・アフリカの有色民族はヨーロッパ人に対して何度となく独立戦争を試みたが全部失敗した。インドネシアの場合は、350年間も失敗が続いた。それなのに、日本軍が米・英・蘭・仏を我々の面前で徹底的に打ちのめしてくれた。我々は白人の弱体と醜態ぶりをみてアジア人全部が自信をもち、独立は近いと知った。一度持った自信は決して崩壊しない。
そもそも大東亜戦争は我々の戦争であり、我々がやらねばならなかった。そして実は我々の力でやりたかった。」

・ネール(初代インド首相)
彼ら(日本)は謝罪をする必要とすることなど、我々にはしていない。それ故、インドはサンフランシスコ講和会議には参加しない。講和条約にも調印しない。

・ラダ・ビノード・パール判事(東京裁判判事、法学者)(インド)
「日本が戦争にふみきったのは侵略のためではなく、独断的な現状維持政策をとる西洋諸国によって挑発された為であり東京裁判は『正義の実現ではなく勝利者による復讐』である。」

・ラダ・ビノード・パール(極東国際軍事裁判判事・法学博士)
私の判決文を読めば、欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であるということがわかるはずだ。
それなのに、あなた方は自分らの子弟に、「日本は犯罪を犯したのだ」「日本は侵略の暴挙を敢えてしたのだ」を教えている。満州事変から大東亜戦争に至る真実の歴史を、どうか私の判決文を通して十分研究していただきたい。
日本の子弟がゆがめられた罪悪感を背負って、卑屈、頽廃に流されていくのを、私は平然と見過ごすわけにはいかない。

・ラダ・ピノード・パール
「この《過ちは繰返さぬ》という過ちは誰の行為をさしているのか。
もちろん、日本人が日本人に謝っていることは明らかだ。それがどんな過ちなのか、わたくしは疑う。
ここに祀ってあるのは原爆犠牲者の霊であり、その原爆を落した者は日本人でないことは明瞭である。落した者が責任の所在を明らかにして《二度と再びこの過ちは犯さぬ》というならうなずける。
この過ちが、もし太平洋戦争を意味しているというなら、これまた日本の責任ではない。
その戦争の種は西欧諸国が東洋侵略のために蒔いたものであることも明瞭だ。
さらにアメリカは、ABCD包囲陣をつくり、日本を経済封鎖し、石油禁輸まで行って挑発した上、ハルノートを突きつけてきた。アメリカこそ開戦の責任者である。」

・グラバイ・デサイ(インド弁護士会会長)
インドは程なく独立する。その独立の契機を与えたのは日本である。インドの独立は日本のおかげで30年早まった。この恩は忘れてはならない。これはインドだけではない。インドネシア、ベトナムをはじめ東南アジア諸民族すべて共通である。
インド国民は、日本の国民の復興にあらゆる協力を惜しまないであろう。他の東亜諸民族も同様である。

・ククリット・プラモード(タイ元首相)
日本のおかげでアジア諸国はすべて独立した。
日本というお母さんは、難産して母体を損なったが、生まれた子供はすくすくと育っている。
今日、東南アジアの諸国民が、米英と対等に話ができるのは、いったい誰のおかげであるのか。
それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。
12月8日は、我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大決意をされた日である。更に8月15日は、我々の大切なお母さんが病の床に伏した日である。
我々はこの2つの日を忘れてはならない。

・サンティン(アムステルダム市長)
本当に悪いのは、侵略して権力を振るっていた西欧人の方です。日本は敗戦したが、その東亜の解放は実現した。
その結果、アジア諸民族は各々独立を達成した。日本の功績は偉大であり、血を流して戦ったあなた方こそ最高の功労者です。自分をさげすむことを止め、その誇りを取り戻すべきであります。

・連合国軍最高司令官 ダグラス・マッカーサー
「東京裁判は誤りであった」
「日本の戦争の動機は正当防衛であり、侵略戦争と呼ぶべきものではなかった」

・極東軍事法廷 キーナン主席検事(アメリカ合衆国)
「東京裁判は公正なものではなかった」

・レーリング判事(オランダ)
「東京裁判には法的手続きの不備と南京大虐殺のような事実誤認があったが裁判中は箝口令がしかれていて言えなかった」

・極東軍事法廷 ウエッブ裁判長(オーストラリア)
「米英ともに日本と同じ状況におかれたら、戦争に訴えたであろう」

・朴 鉄柱(韓国 平成二年一月逝去・六十八歳 、韓日文化研究所 昭和四十二年十月)
「現在の日本の自信喪失は敗戦に起因しているが、そもそも大東亜戦争は決して日本から仕掛けたものではなかった。平和的外交交渉によって事態を打開しようと最後まで取り組んだ。それまで日本はアジアのホープであり、誇り高き民族であった。最後はハル・ノートをつきつけられ、それを呑むことは屈辱を意味した。”事態ここに至る。座して死を待つよりは、戦って死すべし”というのが、開戦時の心境であった。それは日本の武士道の発露であった。日本の武士道は、西欧の植民地勢力に捨て身の一撃を与えた。それは大東亜戦争だけでなく、日露戦争もそうであった。日露戦争と大東亜戦争ーこの二つの捨て身の戦争が歴史を転換し、アジア諸国民の独立をもたらした。この意義はいくら強調しても強調しすぎることはない。」

・現パラオ大統領、トミー・E・レメンゲサウ・ジュニア氏の言葉
「日本は第二次世界大戦終戦から今日に至るまでの年月で敗戦から見事に立ち上がり、それどころか、産業・経済・文化など様々な分野において、世界のリーダーとして活躍されています。
そんな日本の皆様たちのバイタリティが、実は私たちの国パラオを造ったという事実をご存じでしょうか。
終戦までの日本は、数万人に及ぶ日本人入植者をパラオに送り込み、南洋庁を作り、私たちパラオ人のために様々な教育や産業を伝えました。
それは後に、パラオ独立のための貴重な原動力となりました。
そして現在でもパラオの長老たちは日本のことを「内地」と呼び、世界で最も親日感情が高い国、といっても過言ではないのです」

・バ・モウ ビルマ元首相
ビルマ人はアジアを結合せしめアジアを救う指導者を待望しつつありしが遂にこれを大日本帝国に発見せり。・・・ビルマ人はこのビルマに対する最大の貢献に対する日本への感謝を永久に記録せんことを希望するものなり・・・
・バー・モウ(ビルマ元首相)
日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに貢献した国はない。
しかしまた、日本ほど誤解を受けている国はない。

・オランダ・アムステルダム市長
 「皆さんの日本は、 アジア各地で侵略戦争を起こしてすまない。アジア民族たちに大変迷惑をかけたと 自らを馬鹿にして謝罪していますが、 これは大きな間違いです。
皆さんこそ、 自らの血をこぼして、 アジア民族を解放して、 救助するという人類にとってすばらしい行いをしました。
しかし、日本人は 過去の本当の歴史がわからなくて、あるいは(アメリカに)洗脳されて、悪い事をしたと自ら悪者になっていますが、歴史を返り見て真相を見つめる必要がありますね。
事実は、違う。 私たち白色人種が悪い。
百年も 2百年も前から、競いあいアジアを征服して、自分の領土として勢力下に置きました。
そんなアジア民族を解放して、皆繁栄しようと、崇高な理念を掲げて、大東亜共栄圏樹立だと言う旗印で立ち上がったことが 日本でした。

・W・E・B・デュボイス
(米国黒人として最初の博士号をハーバード大学でとった黒人解放運動の指導者)
「日本人の魂、文学、芸術、日本精神の発展のために、一致団結した日本人、すなわち一つの大きな理想に鼓舞された日本人だけが、世界の諸民族にすばらしいメッセージ(人種差別否定)を完全な形で送る事ができる。」

そして日本は彼の期待通り1919年、世界で初めて国際連盟に「人種差別撤廃条項」を提起。
しかしアメリカの反対で否決。アメリカの黒人社会は怒り、暴動がおきた。

・イギリス 歴史学者 H・G・ウェルズ
「この大戦は植民地主義に終止符を打ち、
 白人と有色人種との平等をもたらし、世界連邦の礎石をおいた。」

・ラジャー・ダト・ノンチック(マレーシア元上院議員)
私たちは、マレー半島を進撃してゆく日本軍に歓喜の声をあげました。敗れて逃げてゆく英軍を見た時に、今まで感じたことのない興奮を覚えました。
しかもマレーシアを占領した日本軍は、日本の植民地としないで、将来のそれぞれの国の独立と発展の為に、それぞれの民族の国語を普及させ、青少年の教育を行ってくれたのです。

・マレーシア マハティル首相
「日本の戦争責任を問ったら、
それより以前、残酷な支配と収奪を続いた欧米の宗主国の責任はどうなるか?
日本が戦ってくれたから、
アジアは植民地支配から解放されて近代化が招来された」








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