2013年06月02日

コロコロ変わる元従軍慰安婦の証言 おかしな証言集

・「黄錦周」(ファン・クムジュ)さん1人による証言

1、「生活は貧しく、12歳のときに100円で売られた。ソウルの金持ちの家で小間使い。
1938年に威鏡南道ハムン郡で女中をしていた時に、その家の娘の身代わりとなって満州に連行され従軍慰安婦となった」(従軍慰安婦と戦後補償 / 著者:高木健一)

2、「17歳のとき、日本人の村の指導者の妻が、未婚の朝鮮人少女全員に、日本軍の工場に働きに行くように命じました。そのとき私は労働者として徴用されたのだと思いました。」(国連・経済社会理事会クマラスワミ報告 / 1996年1月4日)

3、「私は19歳で学校を卒業する25日前に、日本軍に引っ張り出され、仕方なく慰安所に行ったんだ」(日本TV企業"TBS"「ここが変だよ日本人」というTV番組より)

4、「満18歳になったある日、男がやって来て、村から娘を提供するように言いました。」(「日韓社会科教育交流団韓国を訪問/1997夏期)

5、『村の班長(日本人)に「一家に一人は行かなくては」と脅され、1941年、韓国を離れましたが、到着した場所は、慰安所でした。』(旧日本軍「従軍慰安婦」の証言を聞く集会 / 1997年12月5日)

6、「14歳のとき、いわゆる「少女出」で満州に連行され、皇軍兵士のセックスの道具にされた。つらい体験だった。」(黄錦周さんの証言を聞く会 / 2001.7.17 / 東京大学)

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・ナヌムの家に住む元従軍慰安婦 「李容珠(イ・ヨンス)さん」の証言

 1944年、16歳の時に強制連行され台湾へ。
 旧日本軍の従軍慰安婦としての生活を3年間強制された。(1947年まで)
(※終戦により日本軍がいなくなった後も、現地で2年間ほど働いていたことになる)
             ↓
 このことを指摘され、従軍慰安婦の期間を 3年間→1年間に修正
 2007年さいたま浦和の公演の配布資料
ac4c399d.jpg

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・チョン・ソウンさん

 証言内容:「13歳(1937年)の時にインドネシアに強制連行され、従軍慰安婦として
7年間(〜1946年まで)性奴隷にされた。」

 2004年他界。享年80歳(日本のインドネシア攻略は1941年。それ以前はオランダの植民地)

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・「文玉珠(ムン・オクス)」さんの証言

1993年10月 「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」(以下「証言」)
1996年2月 「文玉珠 ビルマ戦線 楯師団の『慰安婦』だった私」(以下「文玉」)
13歳の時、満州に行く前に福岡県大牟田で働いていた場所
「証言」・・・遠い親戚で古物商
「文玉」・・・親戚という記述はなく、売春宿
その家を逃げ出した理由
「証言」・・・約束した学校に行かせず、毎日、家の手伝いばかりさせていたから
「文玉」・・・学校に行かせるというのはウソで、大きくなったら身売りさせられると分かったから
朝鮮に帰った後、16歳の時、満州の慰安所に行くことになったきっかけ
「証言」・・・憲兵隊と思われる軍服を着た日本人に突然、路上で連れて行かれる
「文玉」・・・日本人の憲兵と朝鮮人の憲兵と朝鮮人の刑事に突然、路上で連れて行かれる
連行後、駅で引渡された相手
「証言」・・・普通の服を着た日本人の男と朝鮮人の男
「文玉」・・・日本人憲兵と朝鮮人刑事
満州で慰安所に入れられた際
「証言」・・・女の人達に聞いて初めてそこが慰安所であることが分かる
「文玉」・・・大牟田で働いていた時の経験ですぐに売春宿だと分かる
満州から逃げ帰る際、母が病気で死にそうだからと騙して証明書を発行してもらう相手
「証言」・・・主計将校(物品を管理する将校)
「文玉」・・・憲兵
帰郷後、18歳の時、ビルマの慰安所に入るきっかけになったのが
「証言」・・・偶然知り合った友達の誘い
「文玉」・・・満州の慰安所で働いていた友達の誘い
釜山港から船に乗るのですが
「証言」・・・同じにような女が300〜400人超える程だった
「文玉」・・・同じような女が150〜200人ほど港に集まった

 「文玉珠」さんは平成4年に日本の郵便局を訪れ、2万6145円(当時の金額)の預金返還の訴訟を起こしました。
 千円もあれば故郷の大邱に小さな家が一軒買えると体験記で述べていますが、現在の価値なら、4000万〜5000万円程度の金額を、彼女が(自称)性奴隷であった期間、約3年間で貯めていたことが分かります。
 慰安婦であった期間に文原玉珠名義で、合計12回の振込み(計26,145円)を行っていますが
当時、家が20〜30件買えるほどの大金
慰安婦の給与明細.jpg

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・金福童(キムボクトン)さんの証言

 2013年に87歳ということは、1926年生まれ。 14歳のときは、1940年。
 8年間慰安婦として働いたという。終ったときは1947年。 (終戦は1945年)

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。吉元玉(キルウォノク)さんの証言

吉元玉さんのヒストリー

1928年 北朝鮮平安北道熙川生れる
1940年 11歳 旧満州(中国東北部)のハルビンに「慰安婦」として連行される
1942年 13歳 性病にかかって一時帰国したことがあるが、その後再び、中国北部の石家荘に。
1945年 15歳 中国東北部にて 梅素に感染し、ガンを患い子宮を切除
1945年 16歳 日本の敗戦により、引揚船で仁川に着いたが、北の故郷に帰ることができず、そのまま南の韓国に留まった。

「韓国に帰ることができましたが、私の知らないうちに祖国は南北が分断されてしまい、北側にある故郷には帰れません」←
1950年 21歳 朝鮮戦争勃発
1953年 24歳 休戦 南北分断←

1947年(18歳)当時の38度線は越えることの難しい境界線ではありません。
ソースhttp://dmz.gg.go.kr/jap/History/h2.asp

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・李玉粉(イ・オクプン)さんの証言

 1991.12月に提訴された「アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求訴訟」に1992.4月に第2次原告の一人として参加する。同裁判は2004.11月、最高裁棄却により敗訴が確定した。(注)裁判の訴状では1927年生まれ(戸籍上は1929年)となっている。

<生年>
「裁判」・・・1927年(戸籍上は1929年)
「証言」・・・1926年
<拉致された年月>
「裁判」・・・1938年の10月頃
「証言」・・・1937年9月16日頃
<拉致後、閉じ込められた所>
「裁判」・・・下宿屋の部屋
「証言」・・・納戸
<台湾で同女が最初にいた所>
「裁判」・・・ある料亭に売られた(ただし、ただの料亭ではなく売春もしていたようです)
「証言」・・・慰安所本部
<慰安婦になった年>
「裁判」・・・1943年
「証言」・・・1942年
<慰安所の管理人>
「裁判」・・・記述なし
「証言」・・・板倉という軍曹

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・金允心(キム・ユンシム)さんの証言

1997年6月 『元「慰安婦」の証言 −五〇年の沈黙をやぶって アジア・フォーラム編』 皓星社
1997年8月 『私は「慰安婦」ではない日本の侵略と性奴隷』 東方出版
2000年4月 『海南(ヘナム)の空へ戦場からソウル、そして未来への日記』キム・ユンシム  パンドラ
「元『慰安婦』の証言」(以下「元慰」)
「私は『慰安婦』ではない」(以下、「私は」)
「海南(ヘナム)の空へ」(以下、「海南」)
<拉致された乗り物>
「元慰」・・・トラック
「私は」・・・自動車
「海南」・・・自動車
<車に乗っていた人>
「元慰」・・・巡査一人、軍人一人、韓国語のうまいおじさん
「私は」・・・軍人二人(※別途運転手がいたと思われます)
「海南」・・・おじさん、巡査一人、軍人一人
<一緒に拉致された人>
「元慰」・・・自分一人
「私は」・・・友だち二人も一緒に車に乗る
「海南」・・・自分一人
<汽車に乗った時間>
「元慰」・・・次の日の夜
「私は」・・・記述なし
「海南」・・・次の日の朝
<船で受けた行為>
「元慰」・・・該当する記述なし
「私は」・・・手足を縛って水に漬けられる
「海南」・・・手足を縛られ船の端に座らされ、海に放り投げてやると脅されただけ
<ハルピンの慰安所に一緒に入れられた女性>
「元慰」・・・4人
「私は」・・・30人
「海南」・・・5人
7倍以上に増えた後、減っています。「私は」では、とにかく女性達が次々と死んでいったことになっています。辻褄合わせの為に、慰安所の女性を増やしたのでしょう。
<ハルピンの慰安所の建物の様子>
「元慰」・・・「家」としか記述されていない
「私は」・・・「私たちが暮らすと言われた家は洞窟のようで、入り口だけ木で作ってありました。その中に入れられロウソクの明かりで毛布を敷いて寝ました」
「海南」・・・テント小屋で部屋は畳2枚分ごとに仕切られていた
<脱走(1回目)後、日本の軍人に捕まった時の様子>
「元慰」・・・足をふいた後、ある家を見つけて訪ねたら、スパイ容疑をかけられる
「私は」・・・やっと見つけた家に入るとスパイ容疑をかけられる
「海南」・・・足を洗わせてもらおうと、ある家に入ったらスパイ容疑をかけられる
<後から連れて来られた女性>
「元慰」・・・追加なし(※1回目の脱走後、捕まって戻された後、「『お姉さん』四人と私をいれて五人で軍人たちとすごしたのです。」とあり最初から人数は変わっておらず、また、その後、女性が追加されたとの記述はありません)
「私は」・・・具合が悪いと傍目からも分かるようになった女性や臨月の女性は連れて行って、別途、十人ずつ五人ずつ人と連れて来る
「海南」・・・追加で連れて来られたことを示す記述なし
<脱走するようアトアドバイスしてくれた人>
「元慰」・・・労務者のおじさん
「私は」・・・ある軍人
「海南」・・・労務者のおじさん
<一緒に脱走(2回目)した人数>
「元慰」・・・同女のみ
「私は」・・・同女を含めて三人(※逃げてる最中に離れ離れになって結局一人になる)
「海南」・・・同女のみ

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posted by あがさ at 09:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 韓国・従軍婦問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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